外務省へ潜入せよ!! 採用への道
激闘編
1996年某日、私は姫路市内の某レストラン・ボルドー厨房内にて「月刊専門料理」を読んでいました。
要は暇でペラペラめくっていたのですが、あるページにこの様に記してあったのです。
「もう、貴方は大使のパートナーです」
全くをもって、いかがわしいキャッチコピーではありました。
が広告主はあろうことか外務省の外郭団体「国際交流サービス協会」です。
最早、ヤル気全開モードの僕でした。
気になると言えば下の方に小さな字で「特にアフリカ・中南米歓迎」とありましたが、僕には関係ないコトです。
やはり僕はヨーロッパ・東欧等で腕を存分に振るい、かつ・あわよくばお美人のお姉さまとフフフな関係になると。
そう期待するのも仕方が無いと言うものです。
なんせ当時は夢と希望に満ちた25歳、紅顔の美青年でございました故。
募集要項には。
① 健康である事。OK!!
② 経験が5年以上である事。OK!!
③ 何処でも生きていける事。?? うーむ、OK!!
そんなこんなで履歴書と写真、必要書類を揃え早速に郵送致しました。
程なくして協会より確認の電話がかかって来たのです。
「奥見さんですか?協会のT柳と申します」
そう、それが僕の人生を双六の様に、右へ左へと転がすT柳氏との初めてのコンタクトで御座いました。
「先ずは意思確認ですが、海外への赴任希望で宜しいですね」と。
「はいっ!! 不肖奥見、お国の為に尽くす所存でありますっ!!」
と、ハッキリとした口調で宣言いたしました。
先の大戦であれば、予科練入営の口上もかくやである。
「うむ、その心意気や良し」などとは言われなかったが確認終了。
「後はこちらで大使より斡旋依頼があれば連絡するのでそれを待て」とT柳氏は述べ、僕はその日待つ事にした。
ひと月経った頃に再び電話が鳴り、くだんのT柳氏がこう言った。
「ルーマニア大使館に空きが出来ました、行く意思は有りますか?」と。
ルーマニアといえばドラキュラ、もとい以前はバリバリの社会主義国。
チャウシェスク大統領が民衆蜂起の末に夫人共々銃殺された生臭い国である。
そして美人が多い。面白そうだ←???
「行きます、不肖奥見・新時代のルーマニアの礎となる覚悟は出来ました」
「意味は分かりませんがデモとかに参加すると内政干渉になるので駄目ですよ」
などと釘を刺されつつ書類選考に残してもらう事に成功!!
書類審査で見事落選、理由は不明!!
下心を見破られた模様。
その後「USAヒューストンの領事館が募集しています!!」とも連絡を受けたものの、
「東京近郊の方を希望されるとの事」と断られる。
断られる前に歯医者へ行き治療を済ませたのになっ!!
スペースシャトルの打ち上げも楽しみにしとったのにな!!
姫路者はアカンのかぃ?と言いたくなるのを我慢し次の話を待つ事とした。
そこから僕は何時までも行けるか行けへんか分からん話は置いといて。
料理コンクールへ出たり、長野のレストランにスカウトされたりと、忙しい日々を送っていました。
気がつくと最初の登録から2年の月日が経とうとしていたのです。
そんな年も押し迫る1998年の11月末の事でした。
「大変お久しぶりです、T柳ですが」と聞き覚えのある声が・・。
「実は登録2年を過ぎたのでもう一度意思確認をして頂き、登録更新としたいのですが」とのことであった。
だいぶ忘れていた僕でしたがそろそろ次のステップに移りたかったので「まだまだ行く気満々なので宜しく!!」と申し述べた。
明けて1999年、長野より姫路に戻り大型2輪の免許を取ったり、友達の頼みで大阪・福臨門酒家でバイトしたりの日々でした。
プルプルプル♪と携帯が鳴り「奥見さん、ブルネイ大使がお呼びです」とT柳氏
ナント!今回は順調に書類選考に残り、面接にまで進む事が出来ました!!
ドキドキしながら新幹線にて上京、丸の内線にて霞ヶ関の外務省へやって参りました。
当時のブルネイ大使はT本大使とおっしゃる方、夫人もご一緒でした。
まぁ、結果から言うと見事・最終審査にて落選だったのですが。
面接の時に聞かれた質問で面白い事があったので記します。
「奥見さんは、いわゆる「キレ」たりする方ですか?」と。
質問の意図は不明ですが、どうやら過去にキレる方が居られた様です♪
見事に落選した僕でしたが、T本大使も随分と悩まれた様で、落としたけれどもジンバブエの大使を紹介してあげる。
とフォローをして下さいました!!
2週連続上京もメンドクサイのですが、プー太郎だったので物見遊山ついでと割り切って、またまた外務省へ。
二度目の面接で大体感じは掴んでいたので、割と落ち着いてお話が出来ました。
大使「今、何しているの?」
僕「教習所へ行ってます」
「つまり無職だね」
「てへ、その通りです♪」
「直ぐ出国できる?」
「はい、でもハワイへ明後日から一週間行きますので、その後なら!!」
「は、ハワイ?」
「ヤケクソで遊びに行く事にしたんですぅ」
「じゃあ3週間後ジンバブエに来てね、待ってるよ」
「はい、で・ジンバブエって何処でしたっけ?」
「・・・・、まぁT柳君に聞いておいて」
N田大使はそう言って支度金の入った封筒を僕に渡し帰って行った。
頂いたお金を即・自分の口座へ放り込み興奮しながら姫路へと帰り、家族へ報告。
長年の夢が叶った瞬間でした!!
それからと言うもの、先ずハワイですので、出発前に公用旅券の申請書類を外務省に送り、関空を飛び立ちました。
ハワイではアメリカ陸軍退役軍人に付いて、サバイバル訓練を受けました。
そして実砲つまり射撃訓練も受け、回転式とオートマティックの拳銃を使える様になりました。
物騒ですが、GUNコントロールの出来ていない国へ行くのですから、最低限の知識は持つべきだと思いました。
生きて日本へ帰るのが目標です!!
一週間のハワイ滞在の後、帰国。
直ぐにアフリカ用に荷物をまとめ上げました。
特に日本料理に使う器具・道具は多めに用意。
ジンバブエ大使館とも連絡を取り合って準備しました。
時に1999年3月20日
関西国際空港、ヨーロッパ線スイス航空機
チューリッヒ経由ハラレ行き片道切符を胸に、ゼブラ(26歳当時)無事国外追放!!
まさか、3年も行く事になるとは・・・。
次回、公開!! 公文書。公邸料理人の契約条件!!をお楽しみに!!
つづく